医療法人社団 正鵠会

四街道メンタルクリニック

『酒鬼薔薇聖斗』の事件に思う

 神戸市須磨区でおこった一連の事件については、小学生の男の子の遺体が無惨な姿で提示されて以来、マスコミの過剰なほどの報道もあって多くの人々の耳目を集め続けていた。

 私も、以前に連続殺人犯の「精神保健福祉法指定医による診察」を行った経験があったため、強い関心を寄せざるを得なかった。報道によって、遺体の展示(ディスプレイ)の方法が明らかになり、また、犯人の声明文の内容が報道され、次第に犯人の心性が浮かび上がるにつれて、やりきれない思いを深くした。また一人の『反社会的人格障害』とか『情性欠如型精神病質』と精神医学用語で呼ばれるモンスターを我々の社会は抱えざるを得なくなったという思いである。

 精神病質を精神障害として捉えることが適当であるかどうかについては、以前より議論のあるところであり、私個人としては現行の精神医療の枠組みの中でいわゆる強制入院の対象になるような疾患と考えることには同意できない。しかし、そのような概念に相当する様な人間は現実に多く存在する。この事件の場合も犯人が捕まれば『宮崎 勤』事件と同じように精神鑑定が行われ、その責任能力について裁判で争われる事になるだろうと考えていたのである。

 ところが、容疑者が逮捕され、それが14歳の少年であると判明した。精神鑑定は行われるかも知れないが「裁判」は無いようで、その審判は非公開であるという。報道で私が知る限りではこの容疑者は紛れもなく人格障害であるが、「どのような病名が出現するのか判らないのが『精神鑑定』というものである」ことは先の『宮崎 勤』事件で図らずも明らかになってしまっている。特に人格障害・精神病質者の凶悪犯罪は微妙である。精神病質を精神障害として捉えるかどうかの議論が続いている中で、精神保健福祉法では厳然として精神病質を精神障害に含めるといいきっており、しかも日本でもよく使われているDSM-?Rなどの診断基準では18歳以下は反社会性人格障害と診断できない事になっている。鑑定医がどのような立場で鑑定するかでその容疑者の処遇も社会に出てくるプロセスもかなり違ってくるものと思われる。もし精神鑑定をするのであればきちんと時間をかけて然るべき立場の鑑定医数名によって行われることと、その内容の公開を希望したい。

 ところで、容疑者が14歳と判ってから、マスコミ報道は「何が少年をそのような犯罪に駆り立てたのか」という第2の犯人捜しに躍起になっているように思える。「学校に問題があったのではないか」「両親や家族に問題があったに違いない」「阪神淡路大震災の影響か」等である。なにか、少年の犯罪は必ず周囲に責任があると皆が思いこんでいるように映る。そして、その責任をどこかに押しつけようとしたがっているように私には思える。特に学校教育にその矛先が向けられているようで、一時期は犯行声明文にある『透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐』の文言にのせられて、体罰や暴言が容疑者の少年に加えられていたかの様に報じ、なおかつそれが犯行の原因であったかのような、全く犯人の描いた筋書き通りに踊らされたような報道もあった。犯行声明文は少年の心情の吐露などではなく明らかな挑戦状であり、しかも殺人や遺体の損壊といった行為を喜びとするという唾棄すべき心性を正当化し、更にそれをもって自己顕示欲までをも満たすという卑しい意図のもとにつくられたものであると私は思う。『透明な存在』という言葉をもって、あたかも「周囲から受け入れられず拒まれたために居場所を失って存在感が希薄になったために透明になった」というような解釈がされているが、私は全然違うと思う。彼のいう『透明な存在』とは透明人間のそれである。社会的に認知されることを望みながら、その存在様式の性格上認知されるわけにはいかないというジレンマを抱えた存在ということである。犯人は自分の反社会性や犯罪性を熟知しており、それ故に『これからも透明な存在であり続ける』必要があるのだがそれでは自己顕示欲が満足できないといっているだけのことである。そして殺人を楽しむという『もって生まれた自然の性』を有し反社会的であり犯罪的である自分を受け入れてくれない社会、それを否定しようとする、あるいは否認しようとする義務教育に対して逆恨みしているのである。

 殺人を楽しむという『もって生まれた自然の性』を有する彼を排除し、拒否し、受け入れようとしない社会が問題なのだろうか。ジャーナリストと称する人間の中には明らかにそのような論調でこの問題をとりあげようとする人がいるようである。確かに現在の学校、教育現場は大きな問題点を抱えているし、若年層の自己抑制力の低下は明らかである。それが『酒鬼薔薇聖斗』の内面に何らかの影響を与えていることは否めないが、「何が少年をそのような犯罪に駆り立てたのか」という第2の犯人捜しに躍起になっている様なマスコミの現状を考えれば、それはそれでこの事件とは別に議論すべきであろう。

 社会が反社会的な存在を受け入れないことは当たり前である。ところが現在の日本の社会はどうも「反社会的な存在」を排除したり弾圧したりすることが苦手なようで、そうすることに過度の罪悪感と危機意識を持っている。オウム真理教のひきおこした一連の事件に対しても「オウム真理教という宗教団体自体の反社会性」があれほど明らかでありながらそれを徹底して排除し監視するという観点よりは、どうにかして社会の中に取り込み咀嚼しようという流れが優勢であったように思う。対立、闘争の構図を不鮮明化し、その大きな胃袋の中に敵対者までも引きずり込んでかみ砕いていこうとする「社会」の中で、敵対者としての存在をアッピールする道は『酒鬼薔薇聖斗』の選んだ手段の他はない。それによって「殺人を楽しみとする」ような社会に受け入れられることのない惨めな存在が、社会への復讐者として「認められる」ことになる。マスコミはこの惨めな異端者を社会や義務教育への復讐者とする事で彼の自己顕示欲を満たすことに手を貸してしまうだけになることを自覚すべきである。

戻る