医療法人社団 正鵠会

四街道メンタルクリニック

「キレ」てはいけない

 

 最近、小学校高学年、中学生、高校生といった年代の少年少女による暴力・傷害・殺人事件が多く報道され、なぜ「ごく普通」と思われていた子どもたちが簡単に暴力的な行動への垣根を易々と越えていくのかが問題にされている。

 気になるのは先ず「キレル」という言葉が頻繁に使われることである。我慢していたものが限界に達して爆発的衝動的行動へと駆り立てられることをいうのであろう。そうだとすれば、前提として「理不尽な抑圧」に対する「ぎりぎりの我慢」が無ければ正当化されるはずのない言葉である。最近起こっている若年者による事件はどうみても、いとも簡単に「我慢の限界」を越えてしまう若年者の方に問題がある。それなのに、あたかも「キレル」ことがあたりまえのような、キレさせてしまう方に問題があるような報道や論調が目につきすぎる。

 栃木県の女性教師刺殺事件の場合など、「教師の対応の仕方に問題はなかったか」などという投稿をみるにつけ、そうやっていつも若年者にすり寄って「我慢すべき限界点をどこにおくべきか」ということを曖昧にし、次の世代に自分達の依って立つべき規範を示すことをためらっている大人達の姿が浮き彫りになってしまっていると強く感ずる。

 子どもに「我慢すべきことは我慢しろ」と教えるのは親の世代の責任である。どこまでが我慢すべきでどこから先が我慢すべきでないか教えるのも親の世代の責任である。では、親の世代ははそれを教えてもらっているのか、その前の世代から、かくあるべきというメッセージを受け取っているのかというとそれがはなはだ怪しい。

 多様化の時代といわれ、権威や伝統の価値が下がり、何らかの規範を示すことが「おしつけ」という言葉のもとで退けられ、体制に反抗することが対価無く受け入れられるような風潮のもとで、親の世代から2代かけて今の子どもたちは育っている。「キレル」という言葉には、誤った個人主義と、単に権力を否定し責任も問わずに根回し的合意だけを重んずる日本的「民主主義」とがつくりだした無責任体制の突出点という意味がこめられている。

 子どもは教育されるべきである。教育というのは、何らかの価値基準や社会的規範の枠組みの中に子どもを押し込めていく作業である。窮屈な枠組みに押し込めれば管理しすぎで個性を圧し殺した教育になるだろうし、緩すぎる枠組みでは野放しになる。歪んだ枠組みでは歪んだ成長をするだろう。但しいずれにしても枠組みを与えることは教育に必須の条件である。それなのに、その枠組みをなかなか示すことができないでいるのが実状である。枠組みを示そうとすると「管理強化」であるとか「自由の束縛」であるとかといった意見が必ず出て、枠組みを示すこと自体がいけないことであるかのような風潮がいつのまにか作られてしまう。そんな風潮の中で、それを無批判に受け入れてきてしまうような人間が、親として、あるいは親の世代として子どもを教育していくことができる訳がない。また、そのような風潮を作り上げてきた似非民主主義的マスコミはいい加減に目を覚ましてもらいたいと思う。 

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