医療法人社団 正鵠会

四街道メンタルクリニック

脳死報道と情報公開について

 
 脳死患者からの移植医療がはじまり、先日脳死の臓器提供者第2例目が発生したと報道された。それについてのマスコミ論調には、「プライバシーの尊重を楯に情報開示が十分なされていない」「密室の中での移植医療だ」とするものが目立つ。脳死の判定作業や移植される患者の選定作業の詳細が開示されていないという理由によってである。

 この論調にはうなずけない点がいくつかあるが、それを述べる前に、先ず人の死とは何なのか、脳死とは何なのかということについて整理しておきたい。

 私は臨床医の立場から、人の死には何度も立ち会い、また臨終の宣告、死亡時間の宣告、死亡診断書の作成を行ってきた。私の専門は精神神経科であるから、内科や外科の医師よりははるかに人の死に接する機会は少ないと思うが、死亡の宣告をする時、「手は尽くしましたが何時何分にお亡くなりになりました」とご家族に申し上げるのだが、何をもって生から死への境界とするのか、実際のところ確たる根拠はない。多くの場合は心停止した後も閉胸式心マッサージや人工呼吸を施しており、蘇生を期待して一連の処置を続けているわけで、それが蘇生に結びつかないとき、「あきらめて」死亡を確認し宣告するわけである。「どうしてそこであきらめたのか」と問われると正直に言って「諦めざるを得ないと思ったから」としか答えられない。私の諦めざるを得ないという判断には、既に脳の機能は停止しており回復は不可能であろうという思いが含まれている。言うなれば生死の判断に明瞭な境界線は存在しないのである。但し、低体温療法や脳の冷却療法の発達は、脳の機能が回復不可能になる境界をかなり遠くに退ける可能性があり、諦めるべき時点の判断はさらに複雑に、さらにわかりにくくなることだろう。

 日本における「脳死」というのは、実は、自分が生きているうちに、「自分がそのような生死の判断が困難な状態になった時には脳死判定という手続で認められれば死亡したものと判断して下さい」と遺言しておくようなもので、自分の身体や生命についての権利を行使する手段の一つである。だから、ドナーカードなどに自署して脳死を認める旨の意思表明することが必須条件になっているのである。日本の法律は「脳死」を自分の死として受け入れる意志のある人が脳死の状態に陥ったときには死亡したものと認定して良いと定めているのであって、当然「脳死」を認めない人には「脳死」は適用されないのである。「自分は今後の点滴や中心静脈栄養や気管内挿管をしての人工呼吸などの医療行為を拒否して自然な死を迎えたい」とか、「死んでも良いから輸血はしないで欲しい」と主張する患者の意思を尊重して治療するのと大差ない。患者の意志が尊重され、インフォームドコンセントが確立していれば通常の医療行為と異なるところはないものと私は思う。

 一般の医療についての情報開示は、患者さんのプライバシーの保護と患者さんの権利が確保されるという両面から考えねばならないものである。プライバシーの保護は密室性を要するものだし、患者さんの権利が担保されるためには情報が患者さんにはきちんと示され、患者さん自身(患者さんが意志決定能力を欠くときには法的にその意志決定を代行する権利を有する者)が望めばそれを第三者に検証してもらえなくてはならない。いずれにしても医療情報は基本的に患者さんに対して開示されるものであり、例外的にその医療費の一部を負担している保険機関に示されるが、基本的にはそれ以外には公開されてはならないものであると思う。

 しかるにマスコミ・報道メディアの多くは、患者の医療情報として扱われるべき脳死判定の経緯などの詳細について、患者さんの家族にではなく自分たち報道関係者に公開せよといっている様である。患者さんあるいはその家族の了承を得ずして個人的な医療情報を得られる筈がないし、得られたとしても報道すべきでないということがどうしてわからないのか不思議である。日本のマスコミ、報道メディアはそこまで傲慢で知性が低いのであろうか。

戻る